第1話「あがたみよのかくせい」

北陸の寂れた寒村に住む吾潟己依が"その力"に気づいた時は、彼女の心は既に荒廃しきった不毛の大地と化していた。それにも関わらず、状況を変えるべく力を行使しはじめた彼女は底知れない強さを持つ少女であると言えるだろう。もしくは自棄的な思惑があったのか否かは、今になっては知る術もない。力に気づいてしまったことが幸せだったのか、不幸だったのか。深遠の眠りにつく彼女に問うても答えは返ってこない。


始まりはそう、いつものように保健室で眠っていた彼女が目を覚ますありきたりの日常からだ。棺に納められる白磁のような肌とは違い、目の周りを赤く腫らした己依は顔を上気させながら保健室の天井を眺めていた。
彼女はおもむろに片腕を顔の上に持ち上げると、手首を返して刻まれた無数の傷を眺める。また死ねなかった。いつもと同じ言葉をいつもと同じように呟く。日常。
「己依ちゃん、起きたの?大丈夫?もう少し寝てた方がいいんじゃない?」
保健室で庶務を片付けていた山ノ辺が声をかける。今や週の3回は己依の専門女医となっている彼女は、学校の生徒からも絶大な支持を得る先生だ。決して生徒を無下に扱うことなく、対等な目線で対話をしてくれる彼女は、良き相談役としても校内では一役買っている。己依にとっても山ノ辺は心を許せる数少ない人間の1人であった。
「先生…。はい、もう、大丈夫です」
出来合いの笑みを作ると己依は体を起こし、すぐ横にある窓から校庭に目を向ける。校庭では女子生徒がソフトボールをプレイしているが、拙いにも関わらず喧しいその全体の動きは、教室で戯れ合う光景となんら変わりが無く見える。
「私は…、意気地がないんです。死ぬことすら出来ない。本当に死にたいと思っていたら、手首なんて切らずに首を吊るべきなのに…」
山ノ辺は生々しい傷が刻印される彼女の手首を見ると、言葉を返すことが出来なくなる。まだ年若い山ノ辺にはいじめの問題に対してどう向き合えば良いのか判断がつかず、己依についてもただ話を聞くことで、捌け口として己依の役に立てればと思っているのだ。自身の無力さに歯噛みしながら、山ノ辺はありていの解答でなんとか取り繕うとするが、己依の様子がおかしいことに気づいた。
「先生、あれ、なんですか?」
窓の外を指差しながら己依が呟く。その指先にはバッターボックスにいる生徒、桂凛子の姿があった。クラスの女子の中心人物、桂凛子は己依をいじめるグループの中心人物でもあった。求心力のある凛子の周囲を取り巻く女子は多く、凛子に目をつけられた生徒は腫れ物扱いになるのがクラス内のルールになっていた。
「黒いもやが、桂さんを覆っているんです。あの、なんだろう…煙?影?」
目を擦りながら外を見やる己依に倣い、山ノ辺も凛子に目を向けた。しかしそこにはバットを握り締め意気揚々とピッチャーを睨み付ける姿しか映らなかった。
「靄?どこにあるの?今日はこんなに晴れているし、校内の焚き火は裏庭でしかやれないのよ?」
不自然でない校庭の様子を確認すると山ノ辺は己依の額に手を乗せ、逆の手を自らの額にも同じように添える。
「…熱は無いみたいね。貧血かもしれないわ。もう少しゆっくりしていきなさい」
山ノ辺はそう言うとやりかけの庶務に手を伸ばし始めた、その時である。
「先生、怪我人が…」
大きな悲鳴が校庭に響き渡り、1人の女生徒が校庭に足を押さえて倒れていた。近くには先ほどまで凛子が握っていた金属バットが、音を立てながら転がっている。
「ごめんなさい!手が滑ってバットが…」
凛子が慌てて生徒の元へ駆け寄り、他の女生徒達もそれに倣い集まってきた。三塁方向に飛んだバットは守備についていた生徒、冴峯こころの足首を掠めていったのだ。
「た、大変!!!」
己依の言葉で外の様子に気づいた山ノ辺は保健室を飛び出していった。幸いこころの怪我は打撲程度の軽症で済み大事には至らなかったのだが、己依は見てしまった。こころの元に駆け寄る瞬間、凛子の顔に浮かんだ厭らしい笑みを。