第2話「いじめ」

吾潟己依がいじめを受けはじめたのは、思春期特有の少女の葛藤がきっかけだったと言えるだろう。同年代の中では大きく膨らんだ胸、それをクラス内の男子達が表立って囃し立て始めた時から、桂凛子の己依を見る目が変わった。これまで凛子はその端整で可愛らしい顔立ちと明朗で快活な性格から、学校内でも1,2を争うほどの人気を集めるほどの女子だった。クラス内にも凛子に想いを寄せる男子は少なくなく、これまでにも幾度と告白を受けてきた。もともと凛子は村内でも有力者の一家である良家生まれで、プライドが高く周囲に対しても自分に対しても敏感であり、周りからちやほやされることを1つのステータスとして考えていたのだろう。それがひとたび男子の色目の向く相手が、自分ではない他の誰かに変わってしまったこと、その事実は凛子の自尊心を大きく傷つける結果となってしまった。
凛子は自身の自我を保つ為には、己依を敵として認識するよりほかは無かったのだ。矜持としていた強い自意識を崩壊させない為に、凛子は己依をいじめ始めた。そしてクラスのバランスは、いじめによってでしか成り立たなくなっていくのだった。




「吾潟さん、早く食べなよそれ。そうしないと母乳出なくなっちゃうよ」
己依は机の上に置いてある自分の給食を見下ろすと、椅子からおもむろに立ち上がった。そのまま無言で足をドアへと向けて歩き出そうとするが、凛子にその腕を掴まれて動けなくなる。
「駄目じゃない吾潟さん、ちゃんと食べないと。それとも私がよそった給食は食べられないの?」
己依の机に据えられたお盆、そこには真っ白く彩られた器が並んでいた。今日の献立はカレーライスとシーザーサラダだったはずだ。しかし己依の机の上では白い液体がなみなみと器を包んでいる。
「ほら、吾潟さん最近また大きくなったでしょ。たくさんミルク飲まないといけないかと思って、今日はサービスしておいたから」
ケラケラと下品な笑いを振り撒きながら凛子がまくし立てる。周囲からもくすくすと嘲笑が響き渡っていた。
己依はそんな状況にうんざりするでもなく、怒りを見せるでもなく、悲しみを表すでもなく、ただ無表情に無感情に、凛子に掴まれた腕を振り払うとそのまま教室から退出していった。
「なによあいつ。最近面白くないわね。人形みたいに何も反応しないじゃない」
凛子は教室から出て行く己依を見やり、悔しげな表情を顔に浮かべる。既に彼女は自身のプライドに起因するのではなく、ただいじめるという行為を楽しもうとしていた。己依を一番の標的と定めてからは、その汚らしい快楽に飲まれてしまっていた。思い通りの反応を返す己依を自分の遊び道具として凛子は見ていたのだ。
ふと凛子が目を向けた先には、1人寂しそうに給食に手を付ける冴峰こころの姿があった。
醜悪な笑みを浮かべた凛子は己依の机からお盆を持ち上げ、つかつかとこころに歩み寄る。
「ねえ、冴峰さん。おかわりいらない?」




教室を退出した己依は内心の動揺をなんとか隠しながら、女子トイレの一室に駆け込んだ。
「また、あの黒い靄が…」
先ほどの体育の授業中と同じように、己依は凛子の周りを暈す様に黒い靄が立ち込めていたのを見たのだった。
「うっ…」
そして同時に襲い掛かる強烈な吐き気。己依は嗚咽を漏らしながら吐瀉物を口から吐き出した。精神的な耐久不全によるノイローゼである。
凛子に執拗ないじめを受けるようになって既に2ヶ月。己依は自分の感情を消そうという努力をはじめた。相手の思うとおりの反応を示すからエスカレートしていくのだ、という文献を新聞で読んだことがきっかけだった。己依は気づいていないが効果は確実に出ていた。凛子の注意は既に己依からこころへと移ろうとしていたのだ。
しかしその事実を未だ知らぬ己依は、むせ返るような匂いの中でうな垂れていた。無理やり自身の感情を殺した成果は得られず、我慢を重ねるたびにその苦しみは増していくのだった。
「もう…いやだ…」
己依は便座に肘を乗せながら呟く。汚れるのも厭わず、彼女はトイレの床にへたり込み嗚咽をもらすのだった。